江蘇省無錫市内に“天韻書社”にて取材を受ける

 2006年96日―15日、出張し講談と蘇州評弾の交流の可能性の打診のために蘇州にて著名な評弾家、袁小良を訪ねた。たまたま、同氏は無錫で“天韻書社”再開記念公演を蘇州、上海の評弾団の協力を得て開催することになっていた。私も拝見しようと同氏、夫人の王瑾女史、王池良氏らに同道して出かけた。現地での記者会見にて私も現地新聞社の取材を受け、記事が中国語版URLに掲載された。

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打ち上げにて(福島撮影)

評弾の名人たちの見た“評弾”

2006910日 無錫日報より

中国語原文 http://wenhua.thmz.com/col51/2006/09/2006-09-09100997.html

 

 最近、“天韻書社”がホットの話題になっている。余紅仙、袁小良、周紅、王池良、高博文などの評弾の名人が昨晩、天韻書社設立公演にそろって出演したことが無錫の評弾愛好者にとって興奮冷めやらぬ“大事件”なのだ。開演前に行なわれた記者会見では、名人たちの何ら変ることのない情熱を窺い知れた。

今回は“報酬の如何を問わず”《蝶恋花》を歌った上海評弾団所属の余紅仙は、今では国から特別手当を受け取る著名な弾詞の表演芸術家ではあるにもかかわらず、実に謙虚に取材に応じてくれた。

余紅仙にとって無錫は、わずか16才の時に師匠に伴って来訪し舞台に上がった地で特に思い出深いと言う。

「当時、無錫は揚子江下流一帯では随一の書場の拠点でしたから、私は小心翼翼でした。書場一軒を下りて次の書場へ、今でも北大街、西新、吟春何とかという書場名を覚えています。しかも聞き手は凄い人ばかりで、三日舞台に上がれば聞き手の良し悪しが分かりました。」余紅仙は当時、師匠と共に《双珠鳳》を読んでいて三日するとやっと腰をすえられたと言う。「何年も読み、弾き、そして唄って来て、最も印象深いのは聞き手こそ私たちの先生ということです。評弾の最高の隆盛期は既に過ぎ去りましたが、評弾に夢中になれる人々はやはりかなり多くおられます。」天韻社からお声がかかれば報酬如何にかかわらず必ず来演すると余紅仙は至極真摯に語った。

“くっついて”来た日本からの“同業者”

蘇州から駆け付けた袁小良は開口一番浮き浮きとしながらも率直に取材に答えて、ここ10年余り無錫に来演したことはないと言う。さらに彼によれば「街中をあちこち歩けば有るのは粗末な書場ばかりで嘆かわしいこと」なので、天韻社の設立はとりわけ慶ばしいことで、彼にとってここは“高級な書場”と呼べ、そこで何処でも誰にでも無錫に口演に行く!と言えるようになったのだ。ここでこの日袁小良にとって面目躍如となったのは日本の友人が天韻社の事を聞き付けて本当に“くっついて”来たことだ。

この日本人、福島守と言い、意外にも北京調の中国語を話す。袁小良が自分のことを話題にし始めたと知るや早速立ち上がり、日本の説書家(講談家)は60人前後と説明し始めた。「50年前には、日本には少なくとも50余りの講釈場が有ったが今は一軒も無い」彼は日本の演芸界の使者として中国へ視察にやって来て、天韻社は本当に羨ましいと感じている。

評弾を時流に乗ったものにする

高博文から手にした名詞には「古典芸能に従事する若手」という一行が入っている。三十才代で上海生まれの彼は評弾の家柄の出身ではなく、1112才の頃にラジオの番組から評弾に魅了された。

彼の年齢からすれば評弾界では“後になって生まれて来た”世代と言えようが、饒一塵、陳希安、趙開生という弾詞の名士に師事し、今や“魏”流、“瀋、薛”流などの後継者として広く認知されている上海評弾団の若手評弾家である。

高博文によると、方言の退化は伝統芸能には打撃であると言う。そこで日常でも蘇州語で会話をする。さらに“孤独”を感じるという。「学校では10人の同級生がいたけれども舞台に上がるのは私一人だけになってしまった。もし身辺に何十人かの若手がいればどれだけ良いことか」彼の相方である周紅によれば、評弾は絶えず“変身”しており、見事な評弾家とは臨機応変にさまざまな読み物を読める者のことであり、これを忍耐強いと言えるし、評弾の生命力の源泉もここに有ると指摘する。袁小良によれば、評弾を時流に乗ったものにすることはまったく可能であると言う。例えば、蘇州の若い女性で彼に評弾を学んでいる人はかなりいる、「これこそ時流に乗ったという1つの信号だ」というのが彼の指摘である。