江蘇省無錫市内に“天韻書社”にて取材を受ける

 2006年96日―15日、出張し講談と蘇州評弾の交流の可能性の打診のために蘇州にて著名な評弾家、袁小良を訪ねた。たまたま、同氏は無錫で“天韻書社”再開記念公演を蘇州、上海の評弾団の協力を得て開催することになっていた。私も拝見しようと同氏、夫人の王瑾女史、王池良氏らに同道して出かけた。現地での記者会見にて私も現地新聞社の取材を受け、記事が中国語版URLに掲載された。

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     当日の出演者       左より余紅仙、高博文、周紅(福島撮影

“大衆芸能”が“小衆芸能”への試みを妨げることにはならない

2006-09-11

中国語原文 http://www.dzzg.cn/Article/Print.asp?ArticleID=997

 

200698日の晩、半世紀あまり影を潜めていたが、最近再開された無錫市の“天韻書社”で評弾公演が行なわれた。会場は“割れんばかり”の賑やかさとは縁遠かったが、舞台に上がったのは余紅仙、袁小良のような評弾の“大家”で、客席にはきちっとした身なりで教養に満ちた聴き手がいた。意外にもその中には若年層も少なくない。公演終了後、「路地裏や貧弱な街中で聴くのに比べて、今夜の芸こそ堪能した」という感慨を演者も客席も懐いた。

様々な社会的な影響が有って、評弾という伝統演芸の衰退に歯止めがかからない。本来、広範囲の基盤となる大衆が日増しに“老人”に縮小され、若手の聴衆を魅了することが益々困難になっている。

現在の“苦境”の中では、発想の転換も差し支えが無くなった。過去に“大衆芸能”と呼ばれたものが復活することはもとより喜ばしいことではあるが、しかし、もしも“小衆化”や“逸品化”の路線を試行するならば、先ずは伝統芸能の継承が保証されるし、本当の愛好者も純粋な芸を堪能出来る。蘇州での成功に鑑みて、この“天韻書社”でもこのような小衆化や逸品化志向を試みている。他の書場が市井、街中で萎縮しているわけではないが、旧態依然の施設で、夏は空調が無く、冬に暖房が無い、客も種々雑多な職業で、入場料が僅かの金額では、若い人はやはり入りたいとは思わない。この点、ここ“天韻”は違う。百年の歴史を有する、まるで絵画を見るような公園の中に有って、読み物を語る先生方は名人で、客席も正真正銘の読み物愛好家ばかり。毎晩、四方から集まったきちっとした身なりの人々が席に着き、お茶を味わいながら読み物に聞き入る、悠然として優雅であり、若い人もカラオケ同様に気ままにリクエストできる。袁小良師が感慨深く「ここ20年あちこちに出演してきたが、お客は皆、どんなに頑張っても爺さん、婆さん。ここのような環境が有れば読み手と聞き手のいずれも正真正銘の芸を堪能出来る」というのも道理である。

今日の多元的社会においては、大衆芸能の小衆化は避けられない、この点は中国の国内外で皆然りである。中日文化交流を進める日本の友人、福島守氏は中国の評弾家の後を追って中国各地を回り、芸の精髄を吸収しようとしている。彼によると、日本にも評弾同様な古典的な読み物芸が有り、彼らは“小衆化”や“逸品化”志向で、今では読み物芸は日本のハイクラスの人々の時代に合う活動になっており、若い聴衆もますます増えていると言う。大衆から小衆へ、伝統から時代に合ったものへという隣国、日本の経験もまた、中国の大衆芸能に対し喜ばしい啓示とすることが出来るかもしれない。      (新華日報/馬薇)