シナリオ


評弾と講談

講談は、「一人の講談家が高座に上がり、先ずマクラを振り、その日の客席の様子を探り、その後に本題に入って行く話芸で、そして、講談家が1つの筋書きを第三者として読んで行き、時々その中の複数の登場人物を演じ分ける話芸」と定義出来る。

ところで、同様な話芸が今回お招きした蘇州評弾である。蘇州方言で演じられ、今回、王池良氏が“評話”を、袁小良と王瑾は“弾詞”を演じその総称が評弾である。前者は基本的には前述の講談の定義とほぼ一致する。他方、後者は上記講談の定義が大前提で、その上に口演者の楽器演奏、唄い調子が追加される。

 今から400年前の明朝初期に蘇州では既に評弾が聴かれた。今日でも揚子江下流一帯の各都市に書場と呼ばれる講釈場が存在し、そこではほぼ一年中興行が行われ、半月から一ヶ月、長い場合には3ヶ月同じ演者が長編の連続物を毎日高座にかけそれを楽しみに多くの御常連が釈場通いをしている。今回の三氏もそんな講釈場で口演し、その抜き読みを今回披露してくれる。


評話:三国志より抜き読み「長坂橋の戦い」    王池良

千八百年前、魏・蜀・呉の戦乱の時代。蜀の忠誠無比の勇将、乱戦の中、主君劉備の妻子救出にただ一人で魏の曹操の軍百万の中に突入し血路を開く。後は俺に任せろと猛将張飛が長坂橋で仁王立ち。

王池良氏は、この他に夏侯惇、徐庶を登場させ、劉備、諸葛亮(孔明)の名を挙げている。そこで、やはり長坂橋に至るまでの流れを知る方が彼の口演をより一層楽しめる。

何代にもわたる中国北方の勇、袁紹を滅ぼし河北を平定した曹操は、次に漢の王室の血をひく劉表の治める荊州に狙いを付けた。そこには同じく漢室の一門である劉備が滞在し曹操の難を逃れていた。

曹操は大軍を擁して荊州に攻め込むが、劉備が徐庶を軍師として迎えたために、終に大敗してしまった。

この後、徐庶は母親の偽手紙で曹操におびき寄せられ、劉備は有能である徐庶を失う悲痛な思いと親孝行という仁義の狭間で苦しむ。そこで、徐庶も曹操の元に下っても劉備を裏切りはしないと誓い、親友、諸葛亮を劉備に紹介する。この劉備と諸葛亮の出会いは「三顧の礼」の場として三国志ではあまりにも有名な場面。なお、後に徐庶の母は、「一通の偽手紙の真意の見分けもつかいで、主人を見返るとは、何というたわけもの」※1と、首をつって死んでしまう。その徐庶が自分と諸葛亮のことを「それがしがごときを諸葛亮と比べまするのは、蛍火を名月の光にくらべるようなもの」※2と曹操に対し評すると、その言葉に挑発された曹操の勇将、夏侯惇は十万の兵を率いて新野に攻め込む事を志願し、曹操も了承した。しかし、夏侯惇は、これも三国志では名場面の「博望坡の戦い」で、これが劉備陣営の軍師として諸葛亮の初陣となる火攻めの計に遭い散々な結果となり退散した。

ここで、夏侯惇に関し王池良をして独眼流といわせる理由。以前夏侯惇が呂布配下の名将、高順と戦っている最中に、曹性に左眼を射られてしまった。夏侯惇はこぼれ落ちる目玉を拾うと、「父母の血でできたこの目を、捨ててなろうや」※3と叫ぶや、口の中に押し込み呑み込んでしまって、まっすぐに曹性に突きかかり殺してしまったということによる。

話を戻す。しかし、夏侯惇は博望坡で諸葛亮の火攻めの計略に遭って敗れ、逃げ帰った。

その後、曹操自ら出陣し、夏侯惇もその第三隊として劉備の攻撃・追撃に参加。他の諸将と共に長坂橋まで追撃するが、そこで仁王立ちして待ち構えていた張飛に圧倒され立ち止まってしまう。以前、諸葛亮の計略にはまった記憶が脳裏を過ぎり、これも罠ではないかと疑う。
 

※1

徐庶の母の言葉:岩波文庫「完訳三国志」第三巻(小川環樹・金田純一郎訳)19988年版159頁より引用

※2

徐庶の言葉:岩波文庫「完訳三国志」第三巻(小川環樹・金田純一郎訳)1988年版217頁より引用

※3

夏侯惇の言葉:岩波文庫「完訳三国志」第二巻(小川環樹・金田純一郎訳)1988年版128頁より引用


 

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